ボブ・ディランについて何も知らなかったことがわかったよ !
ボブ・ディランのノーベル賞授賞が報道された時、フォークソング歌手の彼が何故という思いをした。

実はディランのことなど、ほとんど知らなかった。
知っていたことといえば、60年代フォーク歌手の筆頭に挙げられ「風に吹かれて」を歌って、日本のフォーク歌手にも影響を与えたなという程度。
しかも、その代表作の歌詞もほとんど知らない。ただ、たまたま、彼も歌った「朝日のあたる家」を私が好きでアニマルズやベンチャーズとの関わりからその経緯について知り、昨年一度このブログにも書いたことがあるぐらいか。
しかし、あとは無知。
例えれば、中学生の社会科試験で歴史上の人物を問う出題に答え、100点を取って有頂天になり、実は名前しか知らず功績など何も連想できないのに歴史通になったかの錯覚をしていたのと同じだ。

ノーベル賞の発表を契機としてテレビでディラン特集がいくつも組まれた。
私が録画し視聴したものだけでも4本ある。しかもそれぞれ濃密な内容だった。
一は「ノー・ディレクション・ホーム」マーティン・スコセッシ監督の映画だ。
前・後編で200分を超える大作。
ディランが自ら初期の創作活動について語っている。NHK BS
二は「ノーベル賞詩人・魔法の言葉」 NHK 地上波 51分
三は「BOB DYLAN MASTER OF CHANGE ~ディランは変わる」NHK BS 106分
四は「祝 ノーベル賞!ボブ・ディラン特集」21分 BS朝日の小林克也さんの番組
これらのTV番組だけでなく新聞でもいくつかの報道記事や論評があった。
なかなか見応え、読み応えがあり、漸くだが、少しばかりディランが見えてきたような気になった。
TVでも新聞でもディラン本人の言葉や、音楽活動を共にしてきた人の話はリアルでわかりやすかった。
一番直近の本人の弁としては12月10日の授賞式に寄せたメッセージだ。自らの読書歴を語りながら受賞の喜びを率直に表明している。
私が感心したのはシェークスピアに触れながら「彼の言葉は舞台の為に書かれていた。話されるべきもので、読まれるべきものでなかった。彼の一番遠くにある問は『これは文学だろうか?』だったに違いありません。」と書き、最後に「『自分の歌は文学だろうか』と自問したことは一度もありません。スウエーデン・アカデミーがその問にすばらしい答えを出してくれた」と感謝した。(朝日新聞 12月13日)
まあ、ディランは自らの詩を文学だと自認したのだろう。
でも、私はなかなか理解できなかった。
正直言って、録画を視聴する前は、以前に演歌がどれも同じように聞こえてきたと同じようにディランの作品もあまり聞き分けられなかった。
でも、聴くだけでなく論評なども読んでいく内になんとなく分かってきた。
何がわかったかというと、私がディランの詩を理解できなかった理由が分かったのだ。
第一は私が英米詩というものを何にも知らないということだ。偉そうに言うことじゃないかな。
Newsweekの10月25日号がディランを特集している。読んで分かったことは彼が英米詩の伝統をしっかり踏まえた詩人だということだった。
「古くから語り継がれて来た民衆詩からの影響を受け、その引用をしたり、聖書や言い伝えなどの言葉を歌詞に挟むとか、又一定のルールのなかで韻を踏むこと」などがしっかりやられているということだ。
つまりそういうことを知らない私などは言葉の洪水としか感じられなかったわけだ。
詩人のアラン・シャピロなどは「ホメロスの作品を文学と認めるなら、ディランの作品も文学だ。彼はアメリカ文学を新しい次元に引き上げた」とまで褒めあげた。(Newsweek10月25日号P20)
第二は私がディランの詩を日本語訳でしか見てこなかったことだ。
聴くのは当然米語だけどね。
日本語になると翻訳いかんで詩的にもなるし散文にもなる。最悪は無味乾燥な文字の羅列にもなるということだ。さらにスラッグをどう訳すかなどでも差が出るね。
先ほど紹介したTV番組で曲が紹介されるのだが、ディランのなかでもポピュラーなものはどの番組でもおなじように紹介された。そのため気がついた。訳詞が違うのじゃないかと。
よく見ていくとそれは必ずしも訳が下手だというのでなく、純粋に詩として訳しているものがあり、それだとメロディに上手く乗らない。
もう一つは、曲によく乗り、ラップのように訳しているもの。
あとは、ただ散文的に訳しているもなどがあった。受け止める方は大きく変わってくる。
このことを感じたのは「Subterranean Homesick Blues」の様々な訳を見てからだ。
次のフレーズの日本語訳の違いは面白い。
You don’t need a weather man
To know which way the wind blows
訳
① 天気予報がなくても 風向きぐらいわかるだろう
② 風向き測ろう 予報士不要
③ オマエには気象予報士はいらない どっちに風が吹くのか知るためには
④ 気象台に電話しないでも 今の風向きは自分でわかる
⑤ 風向きを知るのに予報官なんていらないのさ
⑥ 風向きを人に聞く必要はない
⑦ 君は必要としないさ 気象予報士を
知るためのね どっちの方向から風が吹くのかを
まあ、日本語訳を見るとディランも混乱するね。ラップには②なんかいいと思うし、詩的といえば⑦などいいのだが、はたして曲に乗るのかね。
そんなことでディランの詩を理解できないことを翻訳のせいにしてしまった。
TVの中で小林克也さんが面白い事を言っていた。抽象画のピカソのキュビズムと対比してディランを語った。
「いろいろなモノをバラバラにして、あるものを表現する手法。音楽でも言えるのでは」と。
なるほど、ディランは絵画の抽象画のようにデフォルメして世界を語っていたのか?なんて。
ディランはものすごいメモ魔で、一つの詩を作るのにノートいっぱいにメモし、それを推敲していた。そして記憶力は抜群だった。レコードを二回聞くと曲を覚えてしまったそうだ。歌いっぷりを見て、その場で感じることを音楽に載せているように見えるのだが、そうじゃなくよく練りあげ創作し、それをしっかり覚えていたのだ。
それはともかくノーベル賞は改めてディランのことに関心を持たせてくれた。
600近くあるという、ディランの曲のいくつかを改めて知ることとなった。
「Like a Rolling Stone」などはまさに諸行無常を歌っているかのようだ。
朝日新聞の12月13日の「折々のことば」(鷲田清一さん)で本居宜長の言葉が紹介されていた。
「歌ノ本體、政治ヲタスクルタメニモアラズ、身ヲオサムル為ニモアラズ、タダ心ニ思ウ事ヲイウヨリ外ナシ」
歌の本領は心を飾らず「意にまかす」ところにあるのだそうだ。江戸のディランだ。
最近のコメント