美濃部達吉さんの印象がガラッと変わった。天皇機関説などは全くの新説を聞いたかのようだ!
アメリカ、イスラエルがイランへの攻撃を開始した。アリ・ハメネイ師が殺害された。1月のベネズエラの大統領夫妻拉致に続いての信じがたい蛮行だ。
アメリカ国内でもニューヨークタイムズを始めとして戦闘行為への非難の声が出ている。
誰もが呆然としてしまうような行為だ。そんなことを平然とやってのける国が80年前には日本のいわゆる「平和憲法」制定に力を入れた。
さて、美濃部達吉先生の話に戻ろう。
美濃部が小論を掲載したのは「世界」の創刊号(昭和21年1月号)だ。奥付けを見ると印刷日が昭和20年12月20日となっていた。
となると、執筆したのは11月ぐらいかな。
日本国憲法が施行されたのが1947年(昭和22年)5月3日だから、施行のおよそ一年半ほど前に書いたのか。
1945年8月15日に終戦の詔書が放送され、2日後の17日には東久邇宮稔彦内閣が成立した。元首相であった近衛文麿は無任所大臣(副総理)となった。その近衛が10月4日にマッカーサーと会談して憲法改正の示唆を受けたと歴史年表に出ていた。
それから、二週間後の同月20日に美濃部は朝日新聞の連載で「憲法改正不急論」を主張した。
「世界」創刊号に執筆したタイトルは「民主主義と我が議会制度」。そして「改正不急論」についてもしっかりふれていた。
美濃部は本文冒頭で「帝国議会は現代の民主主義の要求に適するものか?適さないとしたら、いかなる改革を加えればいいのか」と問うた。そして、これに応えるには「民主主義」についてどういうものかを明白にしなければならいとし、次に進む。
民主主義とはもともと「人民主権」「国民主権」の同意語として使われているとし、アメリカの独立やフランス革命を例示しながら世界に国民主権主義が広がっていったことを歴史的に追っていた。
各国で国民主権を標榜しながらも実際の政治組織上の形態は多様であることを具体的に示し、字義を共有しているようでありながら実態はどうなのかと疑義を挟み、具体例として当時のベルギーの実態を示した。その頃のベルギーは世襲王国だった。ところが当国の憲法には「総ての権力は国民より発す、其の行使は此の憲法の定む所に依る」だって。確かに噴飯ものだね。
そんなことから美濃部は持論を展開した。私には、ずいぶんな論理の飛躍と感じたのだけれど。
美濃部は続けて言う。
国民主権主義などといって国民自身又は其の代表者としての議会が国家の最高権力者たることは、新日本建設の基礎にはならないと断じ、尚且つ「我が建国以来の歴史的伝統と相容れないことは勿論、単に観念的な哲学的政治思想としての国民主権も、亦我鞏固な国民的信念とは絶対に調和し得ないものである」と。そして、国民的信念とはなにかを解き明かす。
すなわち「我が国が上に万世一系の皇統を戴き、国民挙げて皇室に対し万国に比類なき尊崇忠誠の念を懐いて居ることは、実に我が国民団結心の中枢を為すものであり、我が国家の最も大なる強みである。(途中省略)実に皇室こそは我が建国以来の歴史に於いて常に我が国家の中心を為したものであり、若し此の中心にして失われるとするならば、···新日本の建設の如き思いもよらぬ·······」と。
何か美濃部の拠って立つところが見えてきたのかな。
美濃部は当時の連合国側の意向を踏まえながら断言した。
「君主制を確保することは、我が国家の統一性を保持する上に欠くべからざる絶対の要件とも謂うべく、これなくしては統一国家としての日本の存在は失われてしまう。(それ故)日本憲法の民主主義化と謂っても、其の民主主義は君主制の下に於ける民主主義を意味するものと解せねばならぬ。国民自身が国の最高権力者たるのでなく、国の最高権力即ち主権は専ら君主に属し、君主が統治権を総覧し憲法の条規に従ってこれを行使したまうことに於いては···自己の個人的恣意に依るのでなく(又)一部の軍閥や官僚の進言に依るのでなく、(さらに)君主は政治の上に反映した国民の意思に従って主権を行使する組織を為すことが制度上担保されていなければならない」とし、直ぐに憲法改正は必要ないとしながら、以下三章から六章にわたって二院制とりわけ貴族院と華族制度の存廃、選挙権被選挙権、婦人参政権、議会の会期、内閣の議会の信任について等々をこうすべきだという私見も交えながら論じていた。君主論以外は、賛同できるものもあった。
美濃部の唱えていたことが薄らと分かった気がしてきた。
それでは、教科書などでは美濃部の論考をどのように紹介していたのだろうか。
先般「国定韓国高等学校歴史教科書」と日本の歴史教科書での両国に関わる歴史事実の表記を比較しようと何冊かの本を物置から出してきた。
それらで美濃部及びその説がどのように紹介されていたのか。
保阪正康さんとか、半藤一利さんの新書版などを含めて7冊の近現代史に関わる冊子があった。
しかし、天皇機関説の記述があったのは四冊だけだった。
一冊の表題は「忘れてしまった高校の日本史を復習する本」(中経出版)
この冊子の6節「大衆文化の発達」で天皇機関説が登場。
大正時代から昭和時代の初期にかけて、大衆文化が花開いたことに触れ、それを支えた思想的背景を作った二人の人物と説が紹介されていた。
一人が「民本主義」の吉野作造、もう一人が「天皇機関説」の美濃部だった。
吉野はデモクラシーを「民本主義」と翻訳した。しかし、現在一般的に理解されている民主主義とは異なり、主権在君のもとでの民衆参加を主張していた。この説を法学的に述べたのが美濃部の「天皇機関説」だった。
この冊子では次のように解説していた。「主権の主体は法人としての国家にあり、天皇は国家の最高機関だ」と説いた。大日本帝国憲法の「天皇が主権者」と矛盾が生ずるので「天皇は国家の最高機関と位置づけ統治の正統性」を認めた。さらに「天皇機関説は、主権在君のもとでの憲法の民主的運用をめざした学説」と説明していた。
二冊目と三冊目は「日本歴史」(新日本出版社)。新書版上中下三分冊の中と下。
ここでは20世紀の初頭に中間層が厚みを増した歴史的事実から解き明かしていた。
人物としては武者小路実篤や有島武郎らの文学者、また青鞜社などを結成した平塚らいてうなどが紹介されていた。しかし、彼らは権力関係などには無関心で力はなかったが、個性の解放と自由をめざしており、民主主義の思想を育てるという意味では一定の役割を果たしたと評価されていた。
こういう状況の中で政治思想上に現れたものとして美濃部と「天皇機関説」が紹介されていた。美濃部の論を次のように説明していた。「主権は天皇にあるのではなく国家にあり、天皇は国家の最高機関としての統治権をもつにすぎないと主張した。それは、帝国憲法体制に妥協しながら、絶対君主制をすこしでも立憲君主制に近づけようとする立場であり、議会政治·政党内閣制を要求する中産階級の政治的主張」だったと評価していた。
(中)ではここまでで、(下)で再び登場した。
1930年代に入り軍部の政治介入が目立ってきた。軍は「皇道派」と「統制派」との対立があるなかでも軍部独裁とファシズム化を着実に強めてきた。
そして、「天皇機関説」も攻撃された。結果、美濃部は不敬罪で起訴され、猶予となったものの貴族院議員など一切の公職を離れることになった。この巻では、ここまで記載されていた。
四冊目は「いっきに学び直す 日本史 近代・現代」(東洋経済新報社)
この冊子では平易な表現で、尚且つコンパクトに美濃部及び「機関説」をまとめてあった。
最初に登場したのは159ページ目になる第10章「国際情勢の推移と日本」だった。美濃部と上杉の憲法論争が展開されているなかで「天皇機関説」を次のように説明していた。「天皇機関説では主権は法人としての国家に存し、天皇はその国家に存する主権を行使する機関であるとされた。とすると、天皇は国家の意志に従って主権を行使せざるをえず、国家の意志は議会で代表されるから、結局議会政治を行わねばならないことになる」なかなか分かりやすい。
二つ目に165ページでやはり吉野作造との関係で「機関説」が取り上げられていた。なぜ「民本主義」で「民主主義」ではないのかの説明も明治憲法との関係で述べ分かりやすかった。
三つ目は思想と学問の項で法学面で美濃部が政党政治の可能なことを立証したとされていた。
四つ目は文化面で文学での白樺派が「機関説」と並んで紹介されていた。
五つ目には205ページに「滝川事件」と並んで「天皇機関説事件 国体明徴事件」として説明されていた。
それによると「1935年2月に美濃部は貴族院で攻撃を受け、3月には軍部·右翼や立憲政友会が国体明徴を主張した。政府は国体明徴を声明し、美濃部の著書は発禁となり、美濃部は9月に貴族院議員を辞任した。『天皇機関説』が葬られたことにより、軍部はもはや遠慮するものもなく政権へ近づけるようになった。」とさ!
ちょっと長くなったけど、うん十年前に教科書で見て名称だけ知っていた「美濃部」や「機関説」がやっと少し分かった気がした。
合わせて昭和の始めごろ、1930年前後をよく見ると、なんだか現在生起しているあれこれに似たところがあるような気がしてきた。こわいこわい!





































































でも、原稿用紙7500枚の大作だからね。しかも船戸与一最後の作品。


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