博物館で「はにわ」に会ってきた。彼らは人気者なんだね。凄い人出だった!
東京国立博物館に行ってきた。
「『埴輪 挂甲の武人』の国宝指定50周年を記念する特別展『はにわ』」だ。(12/8まで開催されていた)
何故か今、古墳ブームだそうで、各地の古墳に絡めたイベントは盛況だそうだ。(10月14日朝日新聞)。
この日は休日で天気もまあまあだったこともあって、博物館は久しぶりに行列だった。長蛇の列の最後尾についてから館内に入るまでに20分もかかった。
これから埴輪見学体験を記すけれど、その前にネット情報に頼りながら埴輪について少し整理してみよう。
埴輪の誕生はどうやら古墳時代のようだ。西暦で言えば3世紀中盤から6世紀にかけてだ。
縄文、弥生に続く時代で、いわゆる飛鳥時代の手前だ。およそ350年間続いた。
列島における支配の力関係を見ると、この時代はいわゆるヤマト王権が成立しつつあった頃だ。
ヤマトは3世紀後半には西日本から東海まで勢力を延ばし、4世紀には関東、北陸まで勢力圏を広げた。そのころ前方後円墳なども築造された。その古墳の上や周囲に立てられた素焼きの土製品が埴輪だ。中には1メートルを超える大きなものもあったようだ。
重要文化財「円筒埴輪」メスリ山古墳出土
この円筒のもの、埴輪の中でも最も出土している種類だそうだ。驚くのはその数。
群馬県の保渡田古墳群の八幡塚前方後円墳には6000本以上の円筒埴輪が張り巡らされていたとのこと。
写真の円筒埴輪は奈良県のメスリ山古墳のもので日本最大級であり、高さ2.4mもある。
今回の催しで配られた目録によると展示埴輪は182もあった。
先ず会場で迎えてくれたのはソーシャルダンスを楽しんでいるようなポーズの埴輪だった。
この埴輪、日本で最も有名だそうだ。いわゆる「踊る人々」だ。
右が男性で隣が女性だそうだが、今のところ、学会では踊っているのではなく馬を引いている姿だという説が有力らしい。男女の区別で言えば一見右側の像が女性ではとい思いがちなのだが、右側の髪型が男性特有の「美豆良(みずら)」だそうだ。
踊っているようなポーズの埴輪は他にもあった。
ノリノリで、まるでサタディ ナイト フィーバーだね。
陳列を目録の章立てで見て行くと第一章が「王の登場」ではじまり、続いて二章「大王の登場」、三章「埴輪の造形」と続くのだけど、何といっても目玉は「挂甲の武人」だ。
リーフレットの写真を使わせてもらった
挂甲の武人5体が一堂に集められたのは史上初めてだそうだ。すべて群馬県での出土だ。国宝は一番左手のものだ。左から三番目の像はなんとアメリカからやって来た。(シアトル美術館蔵)
国宝の埴輪をしっかり見てみよう。
兜の造形がなかなかリアルだ。
武人像は群馬以外でも発掘されている。
左の武人像は大阪府の今城塚古墳での出土だ。右は女性像で「捧げ物をする女子」と名付けられている。出土は同じく今城塚古墳。なにか表情が3DCGアニメみたいだな。
彩色復元された武人
1500年以上前に造られたものだけど、最初にお披露目されたときはこんなに派手だったんだね。
展示品182体を全部紹介するわけにいかないけれど、一通り観て感じたのは学校時代に学び覚えた埴輪とはずいぶん印象が違ったことだ。
素朴なことは間違いないけれど、人物像でいえば表情がいい。穏やかであり、癒される。
動物もそうだ。建造物埴輪もかなりリアルで精巧だ。
人物埴輪について新聞に面白い記事が出ていた。
千葉県の山倉1号墳からの出土埴輪について市原市埋蔵文化財調査センターの研究で明らかになったことが報じられていた。
埴輪の仕上げに関わった作業あとや工具などから、この古墳で埴輪づくりに関わった工人が少なくとも13人いたというのだ。なかでも1人のエースがいて「手のかかる人物埴輪などを一手に引き受けていた」のだそうだ。それでは他の工人の方々は何をしていたかと言うと、先にも出ていた円筒埴輪を作っていたようだ。人物埴輪の写真も掲載されていたけれど、たしか皆、良い表情をしていた。(朝日新聞12/13付 文化欄)
楽器を奏でたり、跪いて挨拶したりと所作も表情も多彩だ。
鳥たちが、こんなに生き生きと表現されている。
見返り美人じゃないけれど、鹿たちが振り返り何を見ているのか?
建築物もこんなに見事な建物があったのかと驚かされる。
たまたまだけどテレビを見ていたら、ちょうどこの時代に関わることが話題になっていた。「下戸 げこ」=(酒が苦手)のDNAについてタレント達が盛り上がっていた。
日本人の成り立ちの中で、従来の縄文人、渡来弥生人、そして混血と言う定説でなく、いわゆる3系統あるいは三重構造の混血の中で日本人が誕生しており、その中で酒の弱い遺伝子を渡来弥生人が持ってきたという話だった。
理化学研究所の研究グループによれば、縄文人となった人たちは2万から1万5千年前に大陸から渡来した人たちで、彼らホモサピエンスはアフリカを出発して前進し、途中で出会ったネアンデルタール人やデニソワ人とも交雑しながらDNAを引き継ぎ進化した(旧モンゴロイド)。大陸を横断しきって、海を越えて列島に到達した。
弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団(新モンゴロイド)が、また古墳時代には東アジアの集団が渡来して混血が進んだ。
研究グループの発表によると縄文系遺伝情報の割合(祖先比率)は沖縄が1番高く28.5%、次いで東北で18.9%と出ていた。それが故、その地方には下戸が少ないんだ。
※旧モンゴロイドはアルデヒド脱水素酵素2の正常活性を持つ遺伝子型のNN型。白色人種や黒色人種はすべてNN型。だから縄文人系は、ヨーロッパ人などと同じく酒が強い。一方弥生人系・新モンゴロイドはND型(NN型の1/16の活性しかない)かDD型(活性が全くない)で酒が弱いか全く飲めない・・・のだそうだ※
そう言えば我が家族は、基本的に皆飲兵衛だということは、弥生系の遺伝子割合が低いのかな。
時代を越えて渡来し、日本民族を形造ってきた彼らだけど、たぶんそのころは列島はすでに大陸と地続きでなく、多分、筏や舟でやってきたのだろうな。
そんな彼らの船の発展途上を示す埴輪もあった。
いや、埴輪についての認識を新たにすることができて、あわせて縄文、弥生、古墳時代についてもおさらいができた。面白かった。
上野公園 博物館前広場の噴水
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