墓参で訪れた寺の梅が満開だった。我が家の植え込みも日を追うにつれ賑やかになっていく!
2月29日。閏年の2月最終日だ。(直近では昨年2024年がそうだった)
4年に一度しかこの日はないのだが、何と偶然か、親族にこの日に亡くなった者が二人いるのだ。そんな訳で、閏年でない年は2月28日か3月1日のどちらかに墓参することにしている。今年は我が家の梅もいつになく咲いてくれたが、寺の梅も見事だった。
元々信仰心に欠ける私なんだけど、いずれ私も納まる場だろうと思い、せめて綺麗にしておこうとゴミ拾いやら野草の除去に訪れる。
ご先祖様二人の話に戻せば、お一人は71年前の1954年2月29日に59歳で、もうお一人は57年前、1968年2月29日45歳でお亡くなりになった。そしてこの二人は何の因果か母子なのだ。
ただ面白いというと、不謹慎かもしれないが、先に亡くなられた母親の墓標には没年月日が3月1日と刻まれているのだ。
終戦直後だったからか、あまり正確性にこだわらず、毎年間違いなく迎えることのできる月日であるのが良いと判断されてなのかな。
まあ、そのころの現実として、生年月日についても事実と異なる届けがされていたと聞く。例えば大晦日やその数日前に生まれた方は1月1日が誕生日だと届けられ、役所でも受け付けたようだ。ましてや墓標に書いて良いこと、ダメなことなど法律では決めていないよね。でも、親族は事実を皆承知していた。だから70年以上たった今、私が事実として語れるわけだ。
それではこの母子の夫であり父親だった方はどうだったかというと、何の宿命やら、息子の寿命とほぼ同じだった。墓標には96年前の1929年1月に44歳で没と刻まれていた。
私はその係累であるのだが、この宿命を引き継がず、今も生き続けている。現在で見れば40代で亡くなるなど、まさに早死になのだが、ただ1925年前後に生まれた方は第二次世界大戦真っ只中にあって中国戦線や東南アジアの戦場に駆り出され、戦死や戦病死した方も多かった。また、乳幼児死亡率も高かったと聞く。
以前聞いて驚いたのだが、1923年生まれの方の中で40歳台まで生きた方はなんと50%前後だったと知り耳を疑った。そんな親族の墓前に線香を供えた。
ここにも水仙が咲いていた
水仙の花は多彩で可憐だ。
二週前に我が家の花々を紹介したけれど、開花する花が少しずつだけど増えて、賑やかになりつつある。
我が家で三種目の水仙の花が開いた。ラッパと言っていいのか中央の部分がバラエティで面白く美しい。
白クリスマスローズは紅に2週間以上遅れて開花した。周りには開花を控えた白蕾がいくつか膨らみ待機している。
今週は、天気予報通りに天候が変化し、滅多に雪を見ない関東甲信越から東海地方東部まで雪がパラつき、雨も降った。その為か、枯れ木まがいであった何種かの木が元気を吹き込まれたように小さな芽を見せ始めた。
楽しみだ。
満天星も若芽が見えてきたが、その足元で可憐に咲いた芝桜の花。
次に開花を控えているのが桃の花だ。でも後二週間ぐらい先になるかな!
こんな花の開くを待つ陽気になったのだけど岩手では8日以上も山が燃えている。
昨日になり大船渡でも雪や雨があった。まさに恵みの雨。なんとか完全鎮火してくれれば!
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