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小説・歴史

2025年7月 3日 (木)

連載小説「夫を亡くして」が了となった。面白かった。北村透谷とミナの物語。

 朝日新聞連載小説「夫を亡くして」(著者 門井慶喜)が234話で了となった。

北村透谷と妻ミナの物語だ。

透谷の名は明治期の物書きとして時折目にすることはあった。でも、その著作や関係書籍を読んでみようとは一度たりとも思わなかった。ましてや、ミナの名など全くの初見だ。

そんなだったけど結構面白く読ませてもらった。

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かつては新聞小説など、あまり読むことはなかった。読み始めることがあっても雑事にかまけて、つい読み忘れ、それが何回か続くと、連載完了を見ぬままになっていた。

そんなであったが、コロナのおかげかどうかは知らぬが、2020年の8月1日から連載が始まった「また会う日まで」(著者 池澤夏樹)を著者の作品への興味から読み始めて以来、習わしとなったかのように現在まで読みが続いている。もう5年だ!

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このところ、目が覚めると寝床の中でスマホを使いデジタル版新聞の小説を読んできた。併せて、いくつかの短い記事も読むのだが、朝の覚醒促進にはいいみたいだ。配達されてくる新聞は日を改めてゆっくり読むようにしている。

小説の中身にもどると、透谷は25歳で自害して、ミナは留学後に教師になる。

タイトルが「夫を亡くして」とあるように、どちらかというとミナの物語だ。難解でなく、俗っぽいテーマもあって面白く読んだ。

226話から終章(エピローグ)に入った。

エピローグ3 (228話)で、ミナは14年勤めた豊島師範学校から品川高等女学校へ転勤した。8年間勤務し、定年を迎えたが再雇用され嘱託として働き続けた。

それから2年後の1933年5月16日。透谷の命日。

ミナは小田原に向かった。

エピローグ5~9 (234話)までに、透谷を顕彰する石碑の除幕式のことが述べられていた。

その石碑についてエピローグ6 (231話)に書かれていた。

神主の祝詞が終わって、発起人が石碑を覆っていた紅白の幕を落とした。

石碑を見たミナの第一声は「変なの」だった。

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確かに「変だ」。

本文では次のように言っている。「ごつごつした石を何十個も集めて、山のようにして固めてある。ただしその中央に埋まった菱形の石だけは表面がなめらかに磨かれていて、そこに肉の細い字で『北村透谷に献す』と彫られていた」39年目の命日での顕彰だった。

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そんなに遠くないところだったので、実際に行って見た。石碑の設置場所は移転されて小田原文学館になっていた。

あわせて墓もお参りしてきた。

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曹洞宗高長寺だ。

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きっかけはどうであれ、新たに何かにつながり、縁ある場所を知ることは面白いことだ。

Wikipediaで透谷について見た所、外部リンクとして青空文庫の作品リストを見ることができた。50もの作品にアクセス可能だった。

透谷の文章を一編読んでみた。「内部生命論」。

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一見して難解。でも、よく見ると、どうも難解なのは展開しようとしている考え方ではなく、使われている用語みたいなのだ。文章の中に見られる言葉は今からすれば古語であり、漢文であり、それに現代語に近い単語が絡みつつ表現されている。例えば「枯燥」「経綸」「造化」等など。

透谷が誕生したのが明治元年(1868年)であり、そして亡くなったのが1894年、25歳だった。

標準語も確立していない時代だからね。

そんな言葉を現代語に替えてみると、それほど複雑で凝ったことなどを言っていないようにも思えてくるのだが、でも、それも、ちょっと違って、今でこそ一般的に論じるられていて、私達も馴染んでいる考え方に近いことからそのように感じるだけだろうな。例えばキリスト教、仏教、儒教などのとらえ方など。

透谷が亡くなって早131年だからね。当時にあっては、他の人には発想できなかったような論だっただろうな。

実際この「内部生命論」はA4用紙6ページの小論文なのだが、登場してくる人物が、ソクラテス、プラトン、そしてダンテやバイロンなのだから。よく引用できたものだと感じる。当時としては間違いなく斬新な論だったに違いない。

小説からだけど、いくつか新しい興味を持たせてくれた。